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2015.4. 掲載
夢のような人生
N氏は病んでいた。もう長くないことを、本人もよく判っていた。ここ数年、入院と手術を繰り返したが、病魔はその都度勢いを盛り返し、もう打つ手のない状況である。このまま退院もできず、あと一月ほどで死んでしまうんだろうなと、この頃はいつも思っている。
思えばぱっとしない50年の人生だった。学校も就職先も中流以下で、その中でも頭角を現すことなんてできなかった。結婚はしたが、家族のためにと思って仕事に集中した結果、家族との間の溝はだんだん大きくなり、死も近いのに見舞いにも来てくれないありさまだ。
もう一度人生をやり直せたらなあなどとと、たわいもないことをまた考えてしまう。
そんなある日、激痛が彼を襲った。呼吸も困難になった。看護師が医師を呼び、次々と点滴の管や測定器が繋がれ、彼の周囲は騒然とした雰囲気となった。あと一月と思っていたが、病魔はそんなにも待ってくれなかったようだ。
鎮痛剤などでかりそめの落ち着きを得た彼は、苦しい息の下で医師に尋ねた。
「もうだめなんでしょうね」
医師はことさらに陽気な表情を作って言った。
「一つだけ望みがあります。最近開発されたばかりの治療法です。未承認なので今まで試せなかったのですが、あなたが承諾すれば実施可能です。詳しい説明をしましょうか」
「いや、もうそんな説明を聞いても、理解できる状況じゃない。可能性があるなら、すぐに試してください」
N氏が運び込まれたのは、いつもの手術室ではなく、なにやら大きな箱のある機械室のような部屋だったが、彼にはそんなことをいぶかる余裕もなかった。
「では麻酔をかけます」
医師の声が聞こえ、N氏は、再び目覚めることはないだろうと覚悟を決めた。
どれだけの時間がたったのか。彼はいつもの病室で目覚めた。生きているのか死んでいるのか、しばらくは判断がつかなかったが、からだの痛みや苦しさは消えていて、そのためになおさら、自分は死んでいるのだという気がした。
やがてナースがやってきて、「お目覚めですか?」とほほ笑んだ。彼女は医師を呼びに行ったのかと思ったら、家族を連れて戻ってきた。家族はN氏の生還を心から喜んでいるようで、妻も娘も涙を浮かべて「良かった、良かった」と繰り返すばかりだ。
その後からだを動かしたり、歩いたりしてみたが、病気の痕跡はきれいさっぱり消えている。魔法のような治療法を使ったらしい。医師に尋ねると、まだ公表されていないので詳しくは言えない、時期が来れば発表されて大騒ぎになるだろう、それまではできるだけ内密にしてほしいとのことだった。医師には感謝の気持ちでいっぱいだったので、素直にわかりましたと答えた。
退院し、会社に復帰した。もともと仕事が楽しかったわけではなく、生活のためにやむなく働いていたので、ブランクを挟んで支障なく勤められるか不安はあったが、出社すると同僚たちは温かく迎えてくれ、厳しかった上司もなぜかやさしく接してくれた。
彼が担当する業務はそれほど判断力が必要とされるものではなかったが、それでもときおり下す判断は、自分でも不思議ながら、いつも的中するようになった。しばらくたつと、入院前には軽く扱われていたことが嘘のように、彼は職場でも一目置かれる存在となった。当然ながら彼は、より判断力や企画力が必要な業務を担当するようになり、つまりは出世を続けた。それに伴い、彼自身も、仕事が楽しくてしかたない、という境地に達した。
職場で頭角をあらわす前から、家庭でも彼の存在感は向上していた。妻や娘に話しかけても返事もしてくれないような状態だったが、今では向こうから話しかけてきて、会話が弾む。一家団欒なんて絵空事だと思っていたが、現実のものとなった。不思議だとは思ったが、やはり一度死にかけたから自分の大事さが分かったんだろうと考え、自分を納得させた。
ぐれて家を出たまま住所不定となっていた長男が帰ってきたことも大きな喜びだった。心を入れ替えてまじめに働くと言い、そのとおりになった。その姿を見て、N氏は涙をこらえた。
定年退職後、しばらく役員として会社に残ったが、蓄えもできたので区切りをつけ、妻と「第二の新婚時代」を楽しむことにした。これまで行きたくても行けなかった世界のあちこちを訪ね、音楽や芝居を楽しみ、スポーツに打ち込んだ。
70を超えても気力は衰えず、80を超えて「わびさび」の世界に浸る喜びを知った。しかし、105歳のとき、ついに体調を崩して入院した。
年齢からして、快復は望めないようだが、N氏は満足していた。「我が人生に悔いなし」などと言える最期を迎えられるなど、思ってもいなかった。あの50歳の時の病気で死んでいたらと思うと、何と幸運に恵まれたことか。あのときの医師はもうとっくに亡くなったが、あの世で会えたら礼を言わなくては。
そういえば、あの病気の以前と以後では、私の人生は全く別物のようだ。あれ以来、何をやっても、いや何もしなくても思いのままの人生を送ることができた。ひょっとして、あの治療法が人生を変えてくれたのかもしれない。いったいどんな治療法なのか聞いておけばよかった。
しかし、もういい。満ち足りて眠りにつくことにしよう。
妻・子・孫・曾孫など大勢の身内に見送られ、N氏は静かに大往生を遂げた。
「13時45分、ご臨終だ」医師が告げた。
「ご家族を呼ぶのは、頭部を修復してからでいいだろう」
N氏の脳につながれたいくつもの電極を取り外しながら、助手が尋ねた。
「Nさんは本当に、『夢のような人生』を送れたのでしょうか」
「喜びや安心を示す波形がたくさん取れている。間違いないだろう。それは、このいかにも満足そうな死に顔を見てもわかるさ」
「本当だ。3日前にこの部屋に来たときは、まるで地獄の幽鬼のような表情だったのに」
助手は目を丸くして、なおも尋ねた。
「夢の中では、いくつまで生きたんでしょう」
「それはデータを分析しないと分からないが、Nさんは以前、『百までは生きたいものだ』と言っていたから、百歳を超えたあたりじゃないかな。本人が『もういい』と思ったら、夢の中で死を迎えるようだ」
「たった3日で、五十数年分の夢を見たんですか?」
「人間の記憶なんて、スカスカなものだ。凝縮すれば短くなる。一瞬で何日分もの夢を見ることなんて、しょっちゅうあるそうだ。たとえば、君のこれまでの人生の記憶の断片を早送りするのに、それほどの時間がかかると思うか?もっとも、Nさんの希望を探りながら記憶を注入するわけだから、スーパーコンピュータの手を借りないとならないが」
「どんな人生を夢見たのかなあ」
「それもまだわからないが、まさに人によってさまざまだな。世界一の大富豪になったり、ノーベル賞を取ったり。世界征服の夢をかなえた人もいるらしい。しかしNさんの場合は、波風のない平穏な一生というところじゃないかな。」
「それにしても、Nさんのこの顔を見ると、医者としていいことをしたような気になりますね。病気は治せなかったのに」
「確かにそうだ。この処置法は、医者を無力感から救ってくれもする」
「この結果を論文にして発表することはできないと聞きましたが、なぜですか」
「一言でいえば、現実の人生の価値が下がるということだろう。努力しても報われない人たちは、努力をやめて、いい夢を見ればいいと思うようになる。闇の『夢屋』もできて集団自殺も起きるだろう。そうなると生産活動も低下し、人類滅亡まで進みかねない」
「じゃあなぜ、ここではこういう処置を続けるのですか。表向きは『なかったこと』になるわけでしょう?本人以外は誰も喜んでくれないし」
「今は研究段階という名目だ。でも、いくつか処置例ができると、それで終わりかもしれないな」
助手はぼそりとつぶやいた。
「僕が死ぬ時までは、続いていてほしいものだ」